Letter to the library
Dear the library,
私は1969年4月にTg大学からWk大学の第3学年に編入学し、1971年3月に人文学部文学科を卒業した2期生です。当時は大学紛争がTg大学でもありましたが、私自身は第二学年時に病気で入退院を繰り返し、ほとんどが病気療養が中心の一年でした。自分の気持が整理できたあと、Wk大学への編入の書類等の必要があってTg大学を訪れると、級友がバリケードの中に入れてくれて、荒廃した教官室などを見せてくれたことを今もはっきりと覚えています。複雑なおもいでした。級友のひとりが、おれ今結核の薬を飲んでいるんだ、と弱った私を気づかうかのように話してくれました。彼とはその後会うことはありませんでしたが、元気に回復したのでしょうか。
当時の学科長だったH先生の自宅へ最終的な書類をいただきにうかがったとき、先生は今後の私の学び方についてのつたない説明を、優しく静かに聞いてくださいました。書類をいただいたあと、先生はWk大の中国文学O先生に、まったく予想もしていませんでしたが、「先生への紹介状を書いておくよ」とおっしゃてくださいました。先生が記名された後、印を押すとき、この印は毛沢東の印を掘った人が作ってくれた印だよと言って、ほほえみながら押印してくださったことを、昨日のように鮮明に覚えています。もう半世紀近い歳月が流れました。ありがたいことでした。
2年ののち、卒業間近の私は、ふと思い立って、先生へ無事卒業できることになりましたと、ご報告したいと思い、すでに先生がR大学に移っておられたことは知っていましたので、書店で先生の現況を確認していたとき、先生がすでに亡くなられていることを知りました。私は先生のあまりに早い逝去に、茫然としていました。帰りによく立ち寄るH市の書店のことでした。先生への感謝がいつも心にあり続けます。
Wk大学の編入学の始まりとして学部長室で、編入学のサインをしたときが中国文学の泰斗O先生との初対面でした。その後先生のゼミを学部長室でお聴きしたことなどを懐かしく想い出します。先生からは深い交流のあった武田泰淳や竹内好のことをお聞きしておけばよかったと今では思いますが、そのころの私にはとてもそのような心の余裕はありませんでした。
旧図書館については、書庫内に自由に入れていろいろな資料を検索できた日々が懐かしく、ありがたく想い出されます。図書館員さんとも親しくなって、今もある制度かどうかわかりませんが、図書館員さんが各種の外国語の仕事に役立つようにと、学内の外国語の授業に出ていたことがありました。私の親しくなった方が、その時間になったので、丁度そこにいた私に「田中さん、授業に出る間、カウンターにいてくれる?」と頼まれて、臨時のカウンター係になったことが2,3回ありました。おもえばのどかな時代でした。
この図書館員さんは年齢的にも私の少し上で、気が合いましたのでよくいろいろな話をしました。あるとき私が中国語を学んでいたことを知って、僕も中国語を勉強したいんだけれど、何かいいテキストがある?と尋ねられました。1960年代末は、まだよいテキストが少なかった時代でした。私は、Tg大学1年の夏休みの通読の宿題に出された中国語言学院から出されていた、2冊本のテキストを夏に彼のところに郵送しました。懐かしい思い出です。彼には小学校の教員になりたいという夢もあって、今の仕事も好きなんだけれどどうしようか、と話していましたが、最終的に教員になることを目指して図書館を退職し、その後無事教員となりました。
私は1947年の生まれで、今年の夏に71歳になります。今ではWk大のすべてが懐かしくおもわれます。
1971年に卒業後、1979年に再び人文学部専攻科に入り、翌年3月終了。1980年から1986年3月までは研究生として在籍しました。このため昼間の都立高校全日制から夜の定時制に勤務を替えながらの7年間でした。若かったので疲れはほとんど感じませんでした。
新しい図書館の槌音が響いて日々を懐かしく想い出します。
先年一度だけ、人文学部紀要を拝見するために、図書館にうかがいました。学内全体があまりにきれいになっているのに驚きました。
そのころ、新聞に大きな一面広告で、Wk大の50周年を拝見したときは、また驚きました。ああもう50年もたったのかと。
1960年代末、休講通知などが張られた広場の下の一階に食堂があって、テーブルの脚がいつもガタガタしていて、何度も最低値段の素ラーメン100円のつゆをこぼしそうになりました。雨が降ると雨どいから雨水が、まさしくジャージャーと溢れていました。それが今は本当にきれいになって、旧図書館があったところで、先年は女房と一緒でしたが、あなたがぼろいぼろいと言ってたけど、普通の大学よりずっときれいじゃない、と変なほめ方をされて、コーヒーを飲みながら一休みしました。そしたら、むかし、熱気球を上げたりしたグランドがあった、前方の構内の道から学生の歌声がして、その方を見ますと、道の真ん中にろうそくを立てて、数人で誰かのためにhappy birthdayの歌を歌っていました。ああ、友達同士のこうした行動、こうした仕草は昔と何ひとつ変わらないな、とうれしくなりました。この大学にはいつもこうしたたのしい雰囲気が漂っていました。
私は当時から言語の勉強が中心でした、なにひとつ明瞭な目標はなかったのですが。年月を経て、その勉強が少しづつ形になりましたので、その結果を2003年から自らのSite で公開するようになりました。現在では複数のSiteとBlogを持っています。表記はすべて英語で、日本語はエッセイ等の数編しかありません。
その中心は、C先生から教えていただいた言語の普遍性Language universalsにかかわるものですが、折々にC先生をはじめとして、Wk大の懐かしい先生方の記憶も載せています。
学部のときに一番お世話になったのは、S先生でした。私の編入学の一番の目的が日本のことを学びたいということでしたので、芭蕉研究の先生のゼミに所属しました。先生からは俳句そのものも教えていただき、ご自宅にも何度かうかがい、奥様とも親しくお話できました。
ようやく大学にも慣れた初夏のある日、私は久しぶりに紀伊国屋に行くために新宿東口の階段をのぼると、さわやかな初夏の光の中に、若者たちの服の華やかな色彩が飛び込んできました。私の体もほぼ健康に戻り、大学での生活にも慣れ、俳句という私には未知であった表現方法も、S先生は、講義後の研究室で丁寧に教えてくださいました。次の句はつたないものですが、そこには1969年の初夏、久しぶりに戻ってきた私自身の青春へのよろこびがあったように思われます。
光の海雑踏は涼しいあじさいの花
S先生とは卒業後も連絡をとっていましたが、ある時から先生のご自宅の電話がつながらくなり、Wk大に問い合わせますと、やはりお世話になりました、事務のOtさんが出てくださり、田中君もう少し早く連絡してくれればよかった、奥様が山でなくなられ、続いて先生は昨年路上で倒れて亡くなられた、と教えられ、呆然としてしばらくは悲しみが癒えませんでした。
先生の没後、Web上で大学の広報を読んでいましたとき、先生が図書館長になられたときで、先生が自らの旧制高校時代の読書記録を書かれていました。難解な本を沢山読まれていることに驚きましたが、先生がその記事の中で、旧制高校が理科であったことを知りました。先生の研究室には丸善の「理科年表」が置かれていて、ある時、先生が「これを見れば月の位置と時刻がわかるのにね」と俳諧にでる月齢等の認識が文系の人にやや薄いことを述べたことがありました。私は先生のその言葉が少し気になっていたのですが、その意味が、旧制高校理科であることで、なにか氷解した思いがしました。そしてその後先生が大学で文学部に進まれた経緯を伺いたかったとも思いました。私自身が、高校ではほとんど理科系に進みたいと思っていましたから。先生とそんなお話をしたかったと今も時折思います。先生はつたない私に、先生の郷里のことなども、時々話してくださいました。特に土曜日の正岡子規の特講のあと、先生と御一緒して帰り、方向が途中まで同じでしたから、幾度か町田でお茶をごちそうになりました。そのときに、旧制高校のことをお聞きしたかった。そう思うのです。
Otさんにもいろいろお世話になりました。一番記憶に残るのは、K先生の著作集が刊行されましたあと、Otさんから、著作集のことを大学の広報誌に載せたいので私に文を書いてほしいとのご依頼でした。大変光栄に思いましたが、それは私の任ではないと感じ、折り返し、長い間の盟友、美術のM先生はいかがでしょうかとお手紙しますと、それを実行され、その名文はK先生を喜ばせました。
中国文学のO先生は、私の卒業後、しばらくして卒業時の謝恩会の私が写った写真を、手紙を添えてわざわざ自宅宛てに送ってくださいました。
先生とは研究生時代に、帰りの小田急でご一緒させていただいた折、私が「先生、難解な元曲をよくゼミで取り上げられましたね」とたずねますと、先生は「ああいうものもしないといけないからね」というお言葉でした。しかしこの会話が先生との生前の最後のものとなりました。
O先生は私が専攻科時代に、修了のための論文として空海の著作の編年を言語的に検証したものを書きましたとき、K先生が私の論考をO先生に伝えていて、廊下でお会いしたとき、「田中君、君の論文と同じような方法をカールグレンが書いているのを知っているかね」と尋ねられ、私は「カールグレンの、グラマタ・セリカは見ていますが、私のような方法を記した論考は見ていません」と答えますと、先生は「研究室にそれを私が訳したものがあるから、見るかね」とおっしゃって、研究室で私にその大切なご本を貸与してくださいました。そのことをK先生に伝えると、Oさんは言語の達人だからね、と微笑みながら楽しそうに話してくださったことを、鮮明に覚えています。
その後、 先生が訳された「左伝真偽考」は神田の中国語専門書店、山本書店で見つけ購入したことを先生にお伝えしました。このことは、カールグレンの業績とともに、O先生への感謝をしるす文としてSite に載せました。
O先生の深い学識に改めて触れたのも、この専攻科の論文について、先生が述べた短い言葉でした。田中君の方法はカールグレンに似ているがあの方法を多用するのは注意した方がいいよ、と述べられたのでした。先生はもうそれ以上何もお話しになりませんでしたが、私には先生の注意が、痛いほどわかりました。私が論文を書きながら最も気になったことだったからです。
私は論文を空海について書くことは早くから決めていました。しかしその方法がわからず、迷い続けていました。仏教史のK先生に提出するために、私が取れる方法がほとんどなかったからでした。古代史的にも仏教史的にも、私が何か新しいものを提示できることなど、限られた専攻科の時間の中ではほとんど存在しなかったのです。夏休みに入り、隣の市の本屋さんにたまたま立ち寄ったとき、そこでまったく偶然に、私は、日本の古代文学の高木市之助先生が書かれた岩波書店刊行の「貧窮問答歌の論」を眼にして、手に取りました。この本は,山上憶良の貧窮問答歌を全く独創的な方法で、分析したものでした。私は立ち読みのまま、先生の「文字の論」が私の求める方法であったことをその場で実感しました。この方法を用いれば、いくばくかの新しい結果をK先生に報告できるかもしれないと思ったのです。
高木先生は、貧窮問答歌の中に現れる漢字を訓字と音字に分けて、その出現度数を精査し、そこから貧窮問答歌の万葉集における特異性を指摘しようとしました。私の場合、空海の「三教指帰」の漢字本文全体の個々の出現度数を調べ、その中で助字の度数を比べることによって、もしかしたら空海に記述の特性が浮かび上がるかもしれないというものでした。それからは毎日、時間があれば「三教指帰」全文の漢字の出現度数を調べ続けました。
冬が近づく中、全文の漢字出現度数は完成し、助字の出現度数の多寡は確定しましたが、それによっては、空海の記述の特性は明瞭にはなりませんでした。年末の論文提出の期限が迫る中で、私はいろいろな方法を試しながら、最後に一つの方法を思いつきました。漢字出現度数は最終的な静的な結果であり、漢字出現の動的状況ではないことに思い至りました。空海が「三教指帰」を記述してゆくとき、どのような間隔で特定の助字が出現するか、その動的な時間的な状況を調べればなにか特性が現れるのではないかと感じたのでした。
「三教指帰」全体の中から頻出する、特定の助字を選出し、それらがどのような間隔差で出現するかを、方眼用紙上に棒グラフとして示していきました。すると、上巻と下巻は助字の出現状況が近似しているのに、中巻だけはまったく異なる出現状況が、グラフ上に明示されたのです。「三教指帰」の中巻は上巻・下巻に比較してきわめて短いもので、その特異さはかつてから指摘はされていましたが、私はこの助字の出現状況から、上巻と下巻はほぼ同時期に書かれたが、中巻だけはこれとは別の時期に書かれたのではないかと推測し、これを論文の結論としました。
漢字の静的な出現度数に時間差という動的状況を加えた分析から著作の撰述時期に区分を付けたのでした。
O先生が訳されたカールグレンの「左伝真偽考」では「春秋左氏伝」に出現するいくつかの助字を「論語」と「孟子」の助字の出現と比較することによって、「左伝」の作者特定や時代を、特定しようとしていました。確かに私が用いた方法と近似するものでした。
しかしO先生の慧眼は、カールグレンや私の方法の一定の有用性を認めたうえで、この方法の大きな問題点を見逃してはいなかったのです。
問題点の大きな一つを簡潔に述べれば、検査する著作の量的大きさが,挙げられます。いわゆる母集団の大きさです。「春秋左氏伝」は「論語」や「孟子」に比べて圧倒的に膨大な著作です。空海の「三教指帰」について言えば、上巻と下巻は、中巻に比べてずっと大きな著述になっているのです。つまり、量的にあまり均質でない集団を比較することの危険性ということになります。私自身が論文を書きながら、この危うさに気付いてはいましたが、そこに立ち止まると論文が完成しないために、この母集団の比較検討を行うことなく、論文をまとめてしまいました、O先生の慧眼は、そのことを見逃さなかったのです。
先生は私の研究生時代に急逝されました。私は先生からもっともっと多くのことを教えていただきたかったと、先生の温容を思い浮かべながら、思わずにはいられません。
O先生に申し上げなかった一つの事実が今も私の中に残ります。私が高校生であったとき、私の机上にはいつも先生が編者のおひとりであった、角川書店発行の漢和中辞典が置かれていたのです。私が大学で、中国語を学ぼうとしたその一つの大きな契機が先生の辞典にあったのです。そのことを、せめて一言でもお伝えしたかった。先生とは幾度も何げない会話ができましたのに、こんな大切なことを私はお伝えしませんでした。
またWk大学日本文学会で私が、漢字音について口頭発表した後の懇親会のときに、O先生は「田中君、よかったら、中国語学研究会に紹介するよ」とおっしゃってくださいましたが、私には恐れ多いので、ご辞退した記憶をありがたく想い出します。多くの古典から現代にいたる研究者が集うこの中国語の学会に参加する力は、私にはありませんでした。先生の学恩が忘れられません。もしかしたら非才な弟子の一人に入れてくださったのでしょうか。
中国哲学のN先生のゼミにも研究生時代に先生が病没なさるまで参加させていただきました。温泉にも数回御一緒させてもらいました。旅館では夜、ほかの学生もいたのでしょうが、私は先生と二人で相対し、先生から「哲学史は教えられるが、哲学は教えられない」ということや、段玉裁の「説文解字注」に話が飛んだとき、先生あの本はどうですか、とたずねますと、先生は即座に「あんなむずかしい本読めるかいな」とか言って笑っていました。先生の講義はまさしく絶品で、私はノートを取りながら、読み返すと、そのままでほとんど著作となる素晴らしさに驚きました。ゼミでは中国革命以前の諸著作を翻訳で読んでいましたが、途中で先生が、この訳ちょっと変だねとおっしゃるので、私はいつも原本を持ってきていましたので、そこを見ると誤訳というのではないが、確かに少し変な訳であることがしばしばあり、まさしく「眼光紙背に徹す」ということわざを実感しました。
先生が古代中国思想史で老子を講義されたとき、その内容があまりに素晴らしかったので、講義のあと先生が黒板を消されているときに、教卓のそばに行き、先生にその旨をお伝えすると、先生はもうだれもいない教室でしたが、再び黒板に向かって一本の木を描き、その枝の先端が細く虚空へと延びてゆくところを示して、この枝の先端が虚空へと消えてゆくところが、「妙」という概念だよとを教えてくださいました。
N先生のことは2度ほど、英文で載せました。
日本仏教史のK先生のすごさもたびたび経験し、時にはそのすごさに、私自身の顔が真っ青になるようなことがありました。
或る時漢文の返り点「レ点」の話になったとき、これは日本独自の問題ですので、先生に、この初出はいつなのでしょうね、尋ねましたとき、先生は初出かどうかはわからないが、道長の「御堂関白記」(みどうかんぱくき)に出てくるよと、話されましたので、私はその時まったく偶然にも、3巻全部の御堂関白記をカバンで持ってきていましたので、先生にお渡しすると、細かくびっしりと組まれた東大史料編纂所刊行の三冊の中から、一冊を取り出し、二三ページめくっただけで、「田中君、ここだよ」と示されたときは、まさしく顔面蒼白となりました。4,5行読み取るだけでも当時の私にはかなり難解な本文を、先生はほとんど記憶していたのです。
先生との何気ない会話から教えていただいたことも数多くありました。その一つに、漢字音の読み方があります。漢字の読み方は、大きく、呉音・漢音・唐音と日本の歴史進行とともに、増加していきますが、今でもその中心は漢音ですが、先生との会話から奈良時代から続く呉音での読み方をしばしば学びました。呉音は奈良仏教などで多用されましたが、その響きが今では優雅に響きます。例えば、東大寺の灯篭に刻まれた音声菩薩は、オンジョウボサツと読みますし、空海の処女作、三教指帰はサンゴウシイキと読みます。その上巻の登場人物、亀毛先生はキモウセンジョウとなります。また先生が敬愛した明治の文豪幸田露伴を、先生はコウダロバンと呉音的に濁って呼んでいました。
先生からは今も決して忘れることのない、大切なことばを教えてもらいました。多分、比叡山のことを話していたときだったと思います。
先生は、「僧には行僧(ぎょうそう)と学僧があって、行僧は行をしていればよく、学僧は学をしていればいいんだよ」ということばでした。人には人それぞれの
生きる使命があるのだよ、というふうなことを、いつもの先生の静かな言い方で語ってくださいました。このことばは私の生涯のことばのひとつとなりました。
先生の思い出はあまりにも多く、もうずっと以前にエッセイ「すてきなおとうさん」でほんの少し先生のことに触れましたが、それ以外には今もほとんど書けないでいます。
言語学のC先生は、年齢的な近さとその明るいお人柄で、しばしばご一緒させていただき、帰り道から電車内まで、言語のことを教えていただきました。
先生については、かなり多くの文を書いています。初めての出会いは1969年のロシア語文法からですから、私が21歳、先生は30代半ば、まだチェコから帰られて間もないころからのお教えでした。
先生とはT駅前の喫茶店でも幾度かお話を伺いました。私がTg大出身ということも、途中から伝えていましたので、そんな気安さからも、まさしく言語の恩師となりました。
河野六郎先生の「転注考」の原本が韓国で発見されたとき、その大切さから、韓国の学者が自ら飛行機で持って来日し先生に届けられたという、学問の尊さを教えられたのもC先生からでした。
その河野先生の博士号授与にかかわったのが、K先生の盟友、比較言語学のKz先生とO先生であったことは、のちにK先生から伺いました。
C先生が教えてくださったプラハ言語学サークルのことは、私はみずからのSite で幾度か取り上げました。私の30代からの方向を決定づけたものでしたから。
私は、先生とかわした、研究生時代のもう終わりに近いころの、先生との会話をいつも思い出します。
その日、先生の講義が終わった後の立ち話の中で、たしか教室のドア付近で、先生がふと、今何を勉強しているのかと尋ねたときがありました。私はそのころ、1985年ごろ、ゲーデル、竹内外史そしてブルバキに強い影響を受けていましたので、たとえば数字の1から9の一つ一つにどのような内的な意味構造があるのかを考えたりしています、と咄嗟に思い浮かんだことを答えました。多分竹内外史先生の著作から受けた、まったく勝手な自分なりの影響であったと思います。
この私の返答に対して、多分先生は、私が答えた氷山の一角のような曖昧なことばの総体を見とどけ、強い口調で応じました。そんなことはやめろ、そんなことはヴィトゲンシタインのような天才が考えることだ、と。言語における意味の追求がどれほど困難なものであったかは、プラハ言語学サークルの大きな方向を見ても明白でした。ある点では、私が最も強い影響を受けた、カルツェヴスキイの言語に対する予想自身が、一つの個峰であったのです。私を導いた、たった一つの彼の予想、言語記号の非対称的二重性。言語はなぜかくも柔らかく、そして強固か。
結果的には、先生のこうしたことばの堆積が、私の生涯の方向を決定しました。
先生が学長になられて、一度お伺いしたいと思っているうちに、年月がながれ、先生の著作はほとんど読み継いでいましたが、その感想も伝えられないうちに亡くなられたことがいまも悲しみとして残ったままです。
あの古びたガタピシとした階段をのぼり、やや暗い電気の下でお話した日々が、昨日のことのように思われます。
ロシア語のMu先生、朝鮮語のKj先生、韓国語のCh先生、ドイツ語の女性のT先生、書誌学・古文書学のYm先生、地質学のOg先生など、親しくお話くださった先生は限りありません。
静かなCh先生が、私の韓国語の「イムニダ」の発音に何度も首を振られて認めようとなさらず、最後に「この発音はむずかしいから」と慰めてくれました。先生の言語に対する厳しさを垣間見た一瞬でした。
或るとき、授業終了後、前々から気になっていた、韓国における漢文訓読の仕方について、先生にお尋ねすると、先生は丁寧に黒板に板書しながら、その仕組みを教えてくださいました。
そしてまた別の日、先生と夕暮れ近い窓辺で、先生が韓国語との出会いをお話ししてくださったことがありました。先生がTg大学で中国語を学んだあと、韓国の延世大に留学なさった細かな経緯をこのときはじめて知りました。そのとき私も実はTg大の中国語科でしたと、お伝えしたかったのですが、なぜかそれは切り出せませんでした。それは今もなにか悔やまれるおもいとして、残っています。
Kj先生は、私が教職の試験などで欠席が重なった時、自宅宛てに手紙を書いてくださり、「田中君、どうしましたか、お元気ですか」と心配してくださったのが昨日のように思い出されます。一度は「自宅に来ませんか」と誘ってくださったのですが、そこまで甘えるのはいけないと思い、遠慮しましたが、のちに先生が早逝なさったとき、先生の優しさにお答えしなかったことが悔やまれました。比較的近かったK大学なのでいつでもお会いできると思っていました。
ドイツ語のT先生は、後期はじめの出席点呼のとき、田中さんは前期の試験を受けませんでしたね、と教室内でたずねられ、私が、申し訳ありません、私はドイツ語を学びたいとは思っておりますが、単位は求めておりませんと言う旨のご返事をしますと、先生は静かに、わかりましたと認めてくださいました。
Mu先生はロシア語祭での暗唱のために、緑色のボールペンで、レルモントフの詩を書いてくださいました。私は教職の試験などのため、十分な暗記ができず、ロシア語祭には登場できなかったのですが、先生と一緒にロシア語祭の教室に行き、ロシア語受講者の若い楽しい祭りを見学しました。懐かしい思い出です。
後期一般教養科目を受講した、地質学のOg先生の素晴らしい講義も忘れることができません。先生は開講当初に、一年間の講義の最終課題をはっきりと明示され、毎回その課題解明のための説明と資料を用意するので、それをすべてそろえれば、年度末には必ず満足のいくレポートが書き上げられるだろうと、話されました。
地質学の基礎知識をまったく持たない私は、ですから一度も遅刻を欠席もせず、朝一時限の講義を受講し、先生の講義を可能な限り克明にノートし、次第に厚くなってゆく先生が作成した資料を整理して一年を送りました。3年の学年末、ほぼすべての講義から解放された私は、Og先生のレポートに多分2週間ほどをかけて専念したと思います。
先生からの課題は、日本における石油資源は、なぜある特定の地域からしか産出しないか、というものでした。この課題を精密に論述することは普通ではかなり困難であったでしょう。私は先生の毎回の講義のノートを整理し、その骨子をなるべく要約しながらも正確にたどり、結論づけようと決めていました。ですからレポートの本文はあまり長いものではありませんでした。その代わりに、その本文の論述の要所要所に、なぜそのように推論できるかを示すことができる先生の資料を自分で整理した注釈を、図やグラフを作成して付けくわえながら、本文の多分数倍にわたるレファレンスとして付載しました。
レポートは、冬の終わりに、隣の市の図書館へ通い、ほとんど人のいない二階の木製のガラス窓が三面に拡がる明るい閲覧室で書きました。この図書館も私の大好きな図書館でした。古い木造の二階建てで、階段などもう少しギシギシいいかけていました。
この図書館には高校1年のときから通い始め、その夏休みには、初めて学んだ徒然草が気にいって、T市の本屋さんで目にした、橘純一の評注徒然草新講を購入し、わからない部分ももちろんたくさんありましたが、その全部を読了しました。橘家が、江戸時代から続く、徒然草の研究を家学とする家の子孫であったことを知ったのは、大学以後になります。この本には、通釈の後に段意という説明文が付いていて、本文の意味がよくわからない時に、大変参考になったことを覚えてます。高校1年、1963年のこの公立図書館の壁に「国産品愛用」のポスターが貼られていたのが印象的でした。
地質学のこのレポートは自分でも満足するものとなりました。何よりも論理の進行の精密さが、私の心に残ったからです。もちろんそれは私の実力によってではなく、先生の一年間の講義がいかに見事であったかを示していたからです。
今もこのレポートが記憶に鮮やかに残るのは、後日談があるからです。多分もう本当に卒業間近のころの2月末ほどだったでしょうか。私はいつもの広場で、先生に朝お会いしたとき、先生が「田中君、研究室にきませんか」と声をかけてくださったのです。先生は人間関係学科でしたし、私は、大勢の受講者の一人として、一般教育科目を受講しただけの学生でした。それなのに先生は私を特定して覚えていてくださったのです。おもえば私は先生の講義を、一番近い席で聴いていましたので、もしかしたらそれで、何かの機会に覚えてくださったのかもしれません。それにしても不思議でした。
先生の研究室でのお話の要点は二つでした。一つは、田中君は就職はどうなりましたか、というものでした。おかげさまで何とか教職に就くことができましたと、報告しました。先生がまったく他学科の私のことを心配してくださったことが忘れられません。もう一つは、私のレポートのことでした。先日新聞社の人が見えたので、田中君のレポートを見せて、新しい大学でもこういうレポートが書けることを伝えたということでした。
先生は高度成長の只中の当時、建築ラッシュから川砂利の採取が不足し陸砂利の採取が増えたことによる、地盤の変動やその場所へのごみ投棄に対して強い警告を発しておられました。先生の危惧はその後はっきりとした現実となり、その修復のために多大な時間を要したことは歴史が示しています。
先生の講義とそれをまとめた私のレポートは、私のその後のささやかな研究にとって大きな意味を持ちました。簡潔に述べれば、どのように未知の領域でも、一歩一歩着実に進めば、理解とそれに基づく発見があるということでした。この事実は、私の現代数学の対する、小さな歩みに凝縮されています。現代数学の基盤を形成したあのブルバキの壮大な構想は、最も単純なところから歩み始めるものでした。それに近いことを、先生は私に一年を通して教えてくださったのでした。
書誌学のYm先生は、J女子大学の学長でいらしたので、ある日先生が来てもいいよとおっしゃったので、御多忙な先生の学長室へ伺いました。丁度源氏物語写本の複製を先生が行っていた時で、出版社の方がその見本刷りを持ってきていました。そのあと、学内の先生の書庫を見せていただいたとき、Kd書店の方が見えて、Kdさんが、先生からお借りした本を返却しに来たのでした。先生が、Kd君は教え子だからね、と楽しそうにおっしゃっていました。三年の夏休みの前に、先生が落窪物語のあの大系の本はG大学のMt君が注釈していて良いテキストなので、それを注釈まで含めてそのすべてを三回読みなさいという宿題を与えてくださったので、1969年の夏はひたすら落窪物語を読み続け、何とか3回読み終えたことは、私の古典の読解力を、いくばくか高めていただいた気がしました。
Ym先生のことは、今に至るまで、何も書けていません。
学科長だったKo先生は、教職に決まった日本文学専修の私たち3人をご自宅に招待してくださり、祝ってくださいました。ぞのとき先生は私に、「田中君のレポートは細かに書かれていたね」とおっしゃってくださいました。日本文学史の先生の講座は受講者が多かったのですが、先生は一人一人のレポートを丁寧に読んでくださっていたことを知り、感激しました。先生に年賀状を差し上げると、立春前ごろに、丁寧な長文の年賀状を返信してくださり、今年も何とか立春までに間に合いましたと、結ばれていたことが懐かしいです。
先生の没後、日本の古典を中心としたエッセイ集がK書店から出版され、その中の「プラハの春」の中で、若きC先生と、のちに先生の奥様となられる、若き日のZさんが、先生のお世話をなさっていたことを知りましたが、私がそのことを知ったときは、C先生ももう亡くなられていましたので、もっと早く 読んでおけばと悔やまれました。「コンラド博士を憶う」では博士に空海の文鏡秘府論を送り届けるという約束をしながら、Mt先生が見つけてくださった本があまりにも高価すぎて送ることができなかったことを述べられていました。コンラド博士は源氏物語の論文を書くために、まず 空海の文鏡秘府論を読むことから始めたいと述べられたことに、Ko先生は深い敬意示されていました。私の時代には、文鏡秘府論がすでに中国で丁寧な句読を付けて翻刻されていましたので、この難解な本を私も何とか表面的に読了することができました。これはKo先生からの無言の宿題を何とか果たすことができたと、自分だけで思っていることですが、何かうれしい思いを抱いた感じがしました。Ko先生の優しさが今も胸に染みます。
F先生はなんと多くのことを教えてくださったことでしょう。トルストイの「復活」から夏目漱石の「野分」まで、宮崎県民謡の「刈り干し切り唄」から芭蕉の発句「村古りて柿の木持たぬ家もなし」まで、芦田惠之助の国語教育論から三好達治の「太郎を眠らせ、太郎の上に雪降り積む」の論争まで、徒然草から西尾実の中世文学史まで、S・I・ハヤカワの「一般意味論」から先生が言語の本質を問うた「呼び合うもの」まで。果てしない広がりでした。
漱石の「野分」は未読でしたので、講義の後すぐに図書館に行って該当の全集を借り、読んだことをおぼえています。
先生の晩年、ご自宅を訪れたとき、お寿司をごちそうするので外出しようとおっしゃり、道すがら、先生が「君は生涯追及するものを持っているか」とたずねられ、まごまごしていると、「私自身今もなおそれを求め追及している」と述べられました。先生にしてなおこのことばが、と学ぶことの果てしない深さを教えられました。
先生から徒然草の形容詞は多彩だから、それをすべて抜き出し検討するとよい、と貴重な示唆をいただきながら、非才のゆえに、その途中で先生のご逝去に会い、なにひとつご報告できなかったことが悔やまれます。これは今も残る私の宿題となっています。思えばすでに三十数年前のこととなりました。
先生はもう卒業間近な1971年早春、私に電報を寄こし、すぐ連絡されたし、とのことで、すぐにお電話すると、君は教職採用のための行動をしているか、と厳しく問いかけ、ぼんやりな私はいいえと答えると、合格は名簿に登載されただけなので、さっそく行動しなさいということでした。先生の厳しい優しさが今も胸に残ります。
先生は確かに厳しかったです。ある日先生の研究室にお借りした資料か何かを返却しにうかがったとき、私の右肩が、少し壁に触れていました。それを見た先生は、ものを返しに来るのに、壁に寄りかかっているとはなにごとか、と強く叱責されました。また先生のご自宅で、或る漢籍の字句が問題になったとき、テーブルの下には諸橋大漢和がいつも置かれていましたが、それを引いてほしいと頼まれました。私がテーブルの下から、大判の該当する部首の一冊を抜き出して、ひき始めるとすぐに、「そんなに遅くちゃだめだ、辞典は頁を二三回めくるくらいで探しあてなくてはいけない」とこの時もひどく叱られました。
またある日、先生の出発点は哲学でしたが、そのための教員の資格試験の面接で西田幾多郎に接したことを、本当に懐かしそうに、先生の青春を回顧するかのように話してくださったことを覚えています。波多野精一の哲学史に関して話してくださったときのことでした。
思い出は切りがありません。今も女房に話すと、本当にそんなことがあったのと、言われる、詩人で万葉集研究のM先生との出会いがありました。
先生は私の編入試験の時の口頭試問の先生でした。私は日本文学の基礎もよくわからないままでしたので、歴史物語の四鏡について尋ねられた時など、しどろもどろでお答えしていましたが、もう私のうろ覚えの力がわかったのか試問を終えた最後になって、先生独特の静かな表情で、もし君が受かったら、私の家に来なさいとおっしゃるのです。その時に先生のご自宅やお電話をお聞きしたのか、もうはっきりとは覚えていないのですが、何とか合格した後、私は大学に行くより前に、先生のご自宅に伺ったのです。先生はWk大学での勉学の方針を示してくださり、そのあとで、私の書庫を見るかねと、おっしゃり、お二階へ案内してくださいました。そこはほとんど全部が書庫となっていて、膨大な書籍でした。最も印象的だったのは、先生はその中からたしか、中原中也が先生に送った献辞のある詩集を見せてくださったことです。先生が旧制高校のころから詩誌を主宰していたことを知ったのは後年のことになりますが、井上靖が先生の詩誌に寄稿されていたことも知りました。しかし当時はまったくそんなことは知りませんでしたので、ただ驚くばかりでした。この先生はまさしく日本の近代文学史の中に存在している、というのがその時の実感でした。
まったく見ず知らずの編入生に先生はご自宅へ来るようにと話され、そこで学ぶからには専門家になるように努めなさいとおっしゃり、しかも先生が書かれた文法の教科書をくださいました。そして大切な書庫まで見せてくださったのです。今もこの事実は、本当のことなのかと思うことがよくあります。Wk 大での生活はこうした幸せの中に始まりました。
そして大学での最後もやはりM先生でした。もう大学での講義もすべて終わったある日、M先生からはがきが届き、君の就職はほぼ決まった、先日K高校の校長が採用の件で君のことを電話でたずねてきたので推薦しておいたから、というものでした。私は早速翌日か何かに、大学へ行き、研究室にいらした先生に御礼を述べると、K高校の校長が偶然僕の後輩だったので、僕のところに照会しにきたんだ、と言って楽しそうに話してくださいました。
私のWk大での勉強は、M先生で始まり、M先生で終わることとなったのです。なにか運命というか予定調和というか、そんなことをおもわずにはいられません。先生が晩年、病院で闘病生活を送られているとうかがったとき、お見舞いにうかがうべきか、何度も迷いましたが、先生のそうしたお姿を拝見することがよいのかわからず、最後までうかがえませんでした。このことは今も私の心に、悲しみとともに私のふがいない生き方を問うています。しかし先生はきっと、編入試験でお会いした当初から、私のそうした優柔不断を熟知されていたと思うに至りました。けれどもそんな私をいつも暖かく見続けてくださったように思います。
私は諸先生から、いったい何度お手紙やおはがきをいただき、なんどお電話をいただいたのでしょう。これらはすべて事実なのに、今振り返ると、どうしてこんなにも優しく丁寧に接してくださったのか、不思議で仕方ありません。私は、図書館が好きでよく利用していましたし、本もある程度は読んでいました、レポートも自分としては一生懸命に書いたものが多かったことはたしかです。しかしここに書いてきましたように決して特別に優秀な学生ではありませんでしたし、性格も表面的にはほぼまじめであったかもしれませんが、どちらかというと生活はいつも不器用で細やかでもありませんでした。
先生方はそのなんとなく頼りない私を、少しは支えようということだったのでしょうか。自分では今もよくわかりません。
私は転校を考え始めた1969年の初めまで、新設されたばかりのWk大学の存在を知りませんでした。その年の新春のころ偶然に見た新聞の記事で、新しいいくつかの大学が紹介されていて、その中で、初めてその開学を知ったのでした。簡単な紹介でしたが、しかしその清新さがどこか私の心に響いていたのかもしれません。その新聞記事は私の恩人の一人と言えるかもしれえません。
その後この大学で学び直してみたいとはっきりと思うようになり、私が直接大学に行き、編入の可否についてたずねましたたとき、担当であったYz先生が本当に丁寧に応対してくださいました。そのときの私は、日本文学の素養がほとんどないので2学年からの編入を考えていましたが、先生が2学年は定員がすでに一杯になっているので、募集は行わない、ただ3学年が少しだけ定員に充ちていないので募集することになっているということを教えられました。Tg大での専攻がかなり違う状況で受けられるでしょうかとたずねると、先生は私が持参した書類の単位取得状況を見て、類似した講座もあるし、総取得数は満たしているようなので、問題は同質でない講座の読み替えが問題になるとおもうが、もし編入試験に受かったならばそのときは大学として読み替えが可能だと判断したことになるので、最終結果は今の段階ではもちろんわからないが、受験資格は多分満たしているでしょうと本当に懇切に意を尽くして話してくださいました。アポイントも取らない私の突然の来校に対して、Yz先生はこれ以上ない丁寧さで応じてくださったのでした。
先生の優しさは編入以後も続きました。これこれは読み替えが完了した、この単位は現在交渉中だが大丈夫だろう、あとこのいくつかについては、田中君が直接、先生方のところに行って指示を仰いでほしい、その連絡はすでにしてある等、本当に細やかに対応してくれました。その話し合いは旧図書館の前の、芝生のところにあったテーブルに先生と相対してのことでした。明るいもう暑いような春の日差しの中でした。私のWk大学での生活はあの旧図書館とともに始まりました。
これほど恩になった教務課長でいらしたYz先生に対して、私はしかし一言の御礼も述べずに大学を卒業していきました。いつもそうでしたが、自分のことだけに精一杯で、常々細やかな他への配慮が欠ける自分の生き方のまずしい一端がここにも表れてしまいました。
先生がWk 大の設立のむずかしい事務方を主導していたことを知ったのはのちのことでした。
先生は1970年代に他大学へ移り、研究の中心であった職業教育の分野で大きな役割を果たしたことを知ったのは、先生がN学院大学退職後、急逝なさったあとのことでした。ここでも私は先生のご恩になにひとつ御礼を申し述べずにお別れしてしまいました。
この手紙は、私が好きだった旧図書館について記すのが本来の目的でした。けれども結果的には諸先生方からいただいたご厚意を伝えることが中心となりました。しかし、その根底に、あの小さな旧図書館の壁のレリーフや収蔵庫の隅に置かれていた椅子や、明るい開放的な窓辺や、Y先生との読み替えのテーブルがあり、私のそのころの勉強は、その旧図書館でなされることが多く、それが結果として、先生方とのつながりにも移っていったような気がします。
私が4年になった1970年の初夏のころ、親しくなった友人が「おーい田中、お前の写真がでているぞ」というので、彼が持ってきた冊子を見ると, たしかに私が旧図書館で本を読んでいるところが、載っていました。それは1971年用の真新しい入学案内の冊子でした。私はたしか事務室かどこかへ行って、その案内を一部いただいてきたことを覚えています。写っていた私は白い開襟シャツを着ていて初夏のころに本を読んでいるところでした。その後の幾たびかの転居で、この冊子は残念ながら失ってしまいました。
私が図書館を利用した目的の一つに、外国語の学習がありました。散漫な私でも図書館ではかなり長時間集中できたからです。岩波書店から発行された、前田陽一先生のフランス語の独習書を三か月ほどかけて、練習問題の仏作文まですべてを完了したのもこの図書館でした。思い出せば、前田先生が、テレビの3チャンネルで聴いた先生の美しいフランス語に私は魅了されていました。当時はなかなか聴くことができなかったヴェトナム語の美しい抑揚に初めて惹かれたのも、悲惨なヴェトナム戦争を報じていたテレビを通してでした。
英文学者の福原麟太郎先生のエッセイを、研究社の著作集を通してほとんど読了したのもこの図書館の蔵書からでした。今も最も記憶にあざやかに記されているのは、先生がやはり図書館かどこかで本を読んでいると、その机上に美しい虹色が現われ、おどろいて窓辺の方を見ると、窓ガラスかなにかが、プリズムのような役割を果たし、その光が机上に美しい文様を落としていたのでした。Wk大学の旧図書館ではもちろんそのように美しい虹は現われなかったのですが、その代わりに、福原先生のエッセイの読後感は私にとってはなにか不思議なほどに特別なものとして残り、できるならば今も、このエッセイを当時のまずしい学生時代のように、もう一度読み直したいと時々思います。そんんふうに時代をさかのぼることは不可能なのですが、この半世紀前の福原先生との出会いは、私の読書のひとつの頂点をなすようなものだったと今では思うようになりました。ここでも旧図書館に感謝しなくてはなりません。
新図書館は、私の研究生時代に、建設が始まりました。私が在籍していたときには、たしか十分な完成には至っていなかったでしょう。それが今はすばらしい図書館となりました。先年うかがって人文学部紀要を拝見したのは、亡くなった恩師、仏教史のK先生のご自宅でのインタビューが載っていたからです。インタビューアのお一人は、私たちの学生時代最も若かった中世文学のYk先生でした。そのYk先生も先年退任後、急逝されました。
Yk先生の説教節等のご研究は今も精緻なものとして高く評価されているようですが、私は平家物語の購読で、3年次に先生の一面をかすかにうかがうことができただけでした。それでも先生は私をおぼえていてくださり、私がまもなく研究生を終えるころ、通学路で偶然先生とお会いしたとき、少しお茶でも飲んでいかないか?とさそわれ、近くの小さな喫茶店でK先生の著作集刊行のことなどをお話できたのが最後となりました。
話がとびとびになりました。本当はあまりうまく表現できない、あの旧図書館のガラス戸の外の明るい芝生の庭やそこで三々五々座って集い雑談したことや、椅子やテーブルを出して、日差しのまぶしいのも気にせず、本を読んだことや、どれも私の力ではうまく表現できないもろもろの多くのことが多分、もっとも大切であったのかもしれません。その最後に、私自身のこととしては、もしかしたら、普通の人よりも多分少しばかり多く収蔵庫の暗い明かりの中で、自由にしかもまったく静かに本をめくったことが加わるでしょう。
そして今は、新しい図書館で、新しい出会いと発見が、私などには想像もできない未知の分野に向かってなされ続けているでしょう。
旧図書館への感謝と、新図書館への希望を、この小文で果たして伝えられたでしょうか。私の学ぶことの中心がここにあったことは確かなのです。
Cordially,
Tokyo
16 April 2018- 10 May 2018
TANAKA Akio
at
Sekinan Zoho
私は1969年4月にTg大学からWk大学の第3学年に編入学し、1971年3月に人文学部文学科を卒業した2期生です。当時は大学紛争がTg大学でもありましたが、私自身は第二学年時に病気で入退院を繰り返し、ほとんどが病気療養が中心の一年でした。自分の気持が整理できたあと、Wk大学への編入の書類等の必要があってTg大学を訪れると、級友がバリケードの中に入れてくれて、荒廃した教官室などを見せてくれたことを今もはっきりと覚えています。複雑なおもいでした。級友のひとりが、おれ今結核の薬を飲んでいるんだ、と弱った私を気づかうかのように話してくれました。彼とはその後会うことはありませんでしたが、元気に回復したのでしょうか。
当時の学科長だったH先生の自宅へ最終的な書類をいただきにうかがったとき、先生は今後の私の学び方についてのつたない説明を、優しく静かに聞いてくださいました。書類をいただいたあと、先生はWk大の中国文学O先生に、まったく予想もしていませんでしたが、「先生への紹介状を書いておくよ」とおっしゃてくださいました。先生が記名された後、印を押すとき、この印は毛沢東の印を掘った人が作ってくれた印だよと言って、ほほえみながら押印してくださったことを、昨日のように鮮明に覚えています。もう半世紀近い歳月が流れました。ありがたいことでした。
2年ののち、卒業間近の私は、ふと思い立って、先生へ無事卒業できることになりましたと、ご報告したいと思い、すでに先生がR大学に移っておられたことは知っていましたので、書店で先生の現況を確認していたとき、先生がすでに亡くなられていることを知りました。私は先生のあまりに早い逝去に、茫然としていました。帰りによく立ち寄るH市の書店のことでした。先生への感謝がいつも心にあり続けます。
Wk大学の編入学の始まりとして学部長室で、編入学のサインをしたときが中国文学の泰斗O先生との初対面でした。その後先生のゼミを学部長室でお聴きしたことなどを懐かしく想い出します。先生からは深い交流のあった武田泰淳や竹内好のことをお聞きしておけばよかったと今では思いますが、そのころの私にはとてもそのような心の余裕はありませんでした。
旧図書館については、書庫内に自由に入れていろいろな資料を検索できた日々が懐かしく、ありがたく想い出されます。図書館員さんとも親しくなって、今もある制度かどうかわかりませんが、図書館員さんが各種の外国語の仕事に役立つようにと、学内の外国語の授業に出ていたことがありました。私の親しくなった方が、その時間になったので、丁度そこにいた私に「田中さん、授業に出る間、カウンターにいてくれる?」と頼まれて、臨時のカウンター係になったことが2,3回ありました。おもえばのどかな時代でした。
この図書館員さんは年齢的にも私の少し上で、気が合いましたのでよくいろいろな話をしました。あるとき私が中国語を学んでいたことを知って、僕も中国語を勉強したいんだけれど、何かいいテキストがある?と尋ねられました。1960年代末は、まだよいテキストが少なかった時代でした。私は、Tg大学1年の夏休みの通読の宿題に出された中国語言学院から出されていた、2冊本のテキストを夏に彼のところに郵送しました。懐かしい思い出です。彼には小学校の教員になりたいという夢もあって、今の仕事も好きなんだけれどどうしようか、と話していましたが、最終的に教員になることを目指して図書館を退職し、その後無事教員となりました。
私は1947年の生まれで、今年の夏に71歳になります。今ではWk大のすべてが懐かしくおもわれます。
1971年に卒業後、1979年に再び人文学部専攻科に入り、翌年3月終了。1980年から1986年3月までは研究生として在籍しました。このため昼間の都立高校全日制から夜の定時制に勤務を替えながらの7年間でした。若かったので疲れはほとんど感じませんでした。
新しい図書館の槌音が響いて日々を懐かしく想い出します。
先年一度だけ、人文学部紀要を拝見するために、図書館にうかがいました。学内全体があまりにきれいになっているのに驚きました。
そのころ、新聞に大きな一面広告で、Wk大の50周年を拝見したときは、また驚きました。ああもう50年もたったのかと。
1960年代末、休講通知などが張られた広場の下の一階に食堂があって、テーブルの脚がいつもガタガタしていて、何度も最低値段の素ラーメン100円のつゆをこぼしそうになりました。雨が降ると雨どいから雨水が、まさしくジャージャーと溢れていました。それが今は本当にきれいになって、旧図書館があったところで、先年は女房と一緒でしたが、あなたがぼろいぼろいと言ってたけど、普通の大学よりずっときれいじゃない、と変なほめ方をされて、コーヒーを飲みながら一休みしました。そしたら、むかし、熱気球を上げたりしたグランドがあった、前方の構内の道から学生の歌声がして、その方を見ますと、道の真ん中にろうそくを立てて、数人で誰かのためにhappy birthdayの歌を歌っていました。ああ、友達同士のこうした行動、こうした仕草は昔と何ひとつ変わらないな、とうれしくなりました。この大学にはいつもこうしたたのしい雰囲気が漂っていました。
私は当時から言語の勉強が中心でした、なにひとつ明瞭な目標はなかったのですが。年月を経て、その勉強が少しづつ形になりましたので、その結果を2003年から自らのSite で公開するようになりました。現在では複数のSiteとBlogを持っています。表記はすべて英語で、日本語はエッセイ等の数編しかありません。
その中心は、C先生から教えていただいた言語の普遍性Language universalsにかかわるものですが、折々にC先生をはじめとして、Wk大の懐かしい先生方の記憶も載せています。
学部のときに一番お世話になったのは、S先生でした。私の編入学の一番の目的が日本のことを学びたいということでしたので、芭蕉研究の先生のゼミに所属しました。先生からは俳句そのものも教えていただき、ご自宅にも何度かうかがい、奥様とも親しくお話できました。
ようやく大学にも慣れた初夏のある日、私は久しぶりに紀伊国屋に行くために新宿東口の階段をのぼると、さわやかな初夏の光の中に、若者たちの服の華やかな色彩が飛び込んできました。私の体もほぼ健康に戻り、大学での生活にも慣れ、俳句という私には未知であった表現方法も、S先生は、講義後の研究室で丁寧に教えてくださいました。次の句はつたないものですが、そこには1969年の初夏、久しぶりに戻ってきた私自身の青春へのよろこびがあったように思われます。
光の海雑踏は涼しいあじさいの花
S先生とは卒業後も連絡をとっていましたが、ある時から先生のご自宅の電話がつながらくなり、Wk大に問い合わせますと、やはりお世話になりました、事務のOtさんが出てくださり、田中君もう少し早く連絡してくれればよかった、奥様が山でなくなられ、続いて先生は昨年路上で倒れて亡くなられた、と教えられ、呆然としてしばらくは悲しみが癒えませんでした。
先生の没後、Web上で大学の広報を読んでいましたとき、先生が図書館長になられたときで、先生が自らの旧制高校時代の読書記録を書かれていました。難解な本を沢山読まれていることに驚きましたが、先生がその記事の中で、旧制高校が理科であったことを知りました。先生の研究室には丸善の「理科年表」が置かれていて、ある時、先生が「これを見れば月の位置と時刻がわかるのにね」と俳諧にでる月齢等の認識が文系の人にやや薄いことを述べたことがありました。私は先生のその言葉が少し気になっていたのですが、その意味が、旧制高校理科であることで、なにか氷解した思いがしました。そしてその後先生が大学で文学部に進まれた経緯を伺いたかったとも思いました。私自身が、高校ではほとんど理科系に進みたいと思っていましたから。先生とそんなお話をしたかったと今も時折思います。先生はつたない私に、先生の郷里のことなども、時々話してくださいました。特に土曜日の正岡子規の特講のあと、先生と御一緒して帰り、方向が途中まで同じでしたから、幾度か町田でお茶をごちそうになりました。そのときに、旧制高校のことをお聞きしたかった。そう思うのです。
Otさんにもいろいろお世話になりました。一番記憶に残るのは、K先生の著作集が刊行されましたあと、Otさんから、著作集のことを大学の広報誌に載せたいので私に文を書いてほしいとのご依頼でした。大変光栄に思いましたが、それは私の任ではないと感じ、折り返し、長い間の盟友、美術のM先生はいかがでしょうかとお手紙しますと、それを実行され、その名文はK先生を喜ばせました。
中国文学のO先生は、私の卒業後、しばらくして卒業時の謝恩会の私が写った写真を、手紙を添えてわざわざ自宅宛てに送ってくださいました。
先生とは研究生時代に、帰りの小田急でご一緒させていただいた折、私が「先生、難解な元曲をよくゼミで取り上げられましたね」とたずねますと、先生は「ああいうものもしないといけないからね」というお言葉でした。しかしこの会話が先生との生前の最後のものとなりました。
O先生は私が専攻科時代に、修了のための論文として空海の著作の編年を言語的に検証したものを書きましたとき、K先生が私の論考をO先生に伝えていて、廊下でお会いしたとき、「田中君、君の論文と同じような方法をカールグレンが書いているのを知っているかね」と尋ねられ、私は「カールグレンの、グラマタ・セリカは見ていますが、私のような方法を記した論考は見ていません」と答えますと、先生は「研究室にそれを私が訳したものがあるから、見るかね」とおっしゃって、研究室で私にその大切なご本を貸与してくださいました。そのことをK先生に伝えると、Oさんは言語の達人だからね、と微笑みながら楽しそうに話してくださったことを、鮮明に覚えています。
その後、 先生が訳された「左伝真偽考」は神田の中国語専門書店、山本書店で見つけ購入したことを先生にお伝えしました。このことは、カールグレンの業績とともに、O先生への感謝をしるす文としてSite に載せました。
O先生の深い学識に改めて触れたのも、この専攻科の論文について、先生が述べた短い言葉でした。田中君の方法はカールグレンに似ているがあの方法を多用するのは注意した方がいいよ、と述べられたのでした。先生はもうそれ以上何もお話しになりませんでしたが、私には先生の注意が、痛いほどわかりました。私が論文を書きながら最も気になったことだったからです。
私は論文を空海について書くことは早くから決めていました。しかしその方法がわからず、迷い続けていました。仏教史のK先生に提出するために、私が取れる方法がほとんどなかったからでした。古代史的にも仏教史的にも、私が何か新しいものを提示できることなど、限られた専攻科の時間の中ではほとんど存在しなかったのです。夏休みに入り、隣の市の本屋さんにたまたま立ち寄ったとき、そこでまったく偶然に、私は、日本の古代文学の高木市之助先生が書かれた岩波書店刊行の「貧窮問答歌の論」を眼にして、手に取りました。この本は,山上憶良の貧窮問答歌を全く独創的な方法で、分析したものでした。私は立ち読みのまま、先生の「文字の論」が私の求める方法であったことをその場で実感しました。この方法を用いれば、いくばくかの新しい結果をK先生に報告できるかもしれないと思ったのです。
高木先生は、貧窮問答歌の中に現れる漢字を訓字と音字に分けて、その出現度数を精査し、そこから貧窮問答歌の万葉集における特異性を指摘しようとしました。私の場合、空海の「三教指帰」の漢字本文全体の個々の出現度数を調べ、その中で助字の度数を比べることによって、もしかしたら空海に記述の特性が浮かび上がるかもしれないというものでした。それからは毎日、時間があれば「三教指帰」全文の漢字の出現度数を調べ続けました。
冬が近づく中、全文の漢字出現度数は完成し、助字の出現度数の多寡は確定しましたが、それによっては、空海の記述の特性は明瞭にはなりませんでした。年末の論文提出の期限が迫る中で、私はいろいろな方法を試しながら、最後に一つの方法を思いつきました。漢字出現度数は最終的な静的な結果であり、漢字出現の動的状況ではないことに思い至りました。空海が「三教指帰」を記述してゆくとき、どのような間隔で特定の助字が出現するか、その動的な時間的な状況を調べればなにか特性が現れるのではないかと感じたのでした。
「三教指帰」全体の中から頻出する、特定の助字を選出し、それらがどのような間隔差で出現するかを、方眼用紙上に棒グラフとして示していきました。すると、上巻と下巻は助字の出現状況が近似しているのに、中巻だけはまったく異なる出現状況が、グラフ上に明示されたのです。「三教指帰」の中巻は上巻・下巻に比較してきわめて短いもので、その特異さはかつてから指摘はされていましたが、私はこの助字の出現状況から、上巻と下巻はほぼ同時期に書かれたが、中巻だけはこれとは別の時期に書かれたのではないかと推測し、これを論文の結論としました。
漢字の静的な出現度数に時間差という動的状況を加えた分析から著作の撰述時期に区分を付けたのでした。
O先生が訳されたカールグレンの「左伝真偽考」では「春秋左氏伝」に出現するいくつかの助字を「論語」と「孟子」の助字の出現と比較することによって、「左伝」の作者特定や時代を、特定しようとしていました。確かに私が用いた方法と近似するものでした。
しかしO先生の慧眼は、カールグレンや私の方法の一定の有用性を認めたうえで、この方法の大きな問題点を見逃してはいなかったのです。
問題点の大きな一つを簡潔に述べれば、検査する著作の量的大きさが,挙げられます。いわゆる母集団の大きさです。「春秋左氏伝」は「論語」や「孟子」に比べて圧倒的に膨大な著作です。空海の「三教指帰」について言えば、上巻と下巻は、中巻に比べてずっと大きな著述になっているのです。つまり、量的にあまり均質でない集団を比較することの危険性ということになります。私自身が論文を書きながら、この危うさに気付いてはいましたが、そこに立ち止まると論文が完成しないために、この母集団の比較検討を行うことなく、論文をまとめてしまいました、O先生の慧眼は、そのことを見逃さなかったのです。
先生は私の研究生時代に急逝されました。私は先生からもっともっと多くのことを教えていただきたかったと、先生の温容を思い浮かべながら、思わずにはいられません。
O先生に申し上げなかった一つの事実が今も私の中に残ります。私が高校生であったとき、私の机上にはいつも先生が編者のおひとりであった、角川書店発行の漢和中辞典が置かれていたのです。私が大学で、中国語を学ぼうとしたその一つの大きな契機が先生の辞典にあったのです。そのことを、せめて一言でもお伝えしたかった。先生とは幾度も何げない会話ができましたのに、こんな大切なことを私はお伝えしませんでした。
またWk大学日本文学会で私が、漢字音について口頭発表した後の懇親会のときに、O先生は「田中君、よかったら、中国語学研究会に紹介するよ」とおっしゃってくださいましたが、私には恐れ多いので、ご辞退した記憶をありがたく想い出します。多くの古典から現代にいたる研究者が集うこの中国語の学会に参加する力は、私にはありませんでした。先生の学恩が忘れられません。もしかしたら非才な弟子の一人に入れてくださったのでしょうか。
中国哲学のN先生のゼミにも研究生時代に先生が病没なさるまで参加させていただきました。温泉にも数回御一緒させてもらいました。旅館では夜、ほかの学生もいたのでしょうが、私は先生と二人で相対し、先生から「哲学史は教えられるが、哲学は教えられない」ということや、段玉裁の「説文解字注」に話が飛んだとき、先生あの本はどうですか、とたずねますと、先生は即座に「あんなむずかしい本読めるかいな」とか言って笑っていました。先生の講義はまさしく絶品で、私はノートを取りながら、読み返すと、そのままでほとんど著作となる素晴らしさに驚きました。ゼミでは中国革命以前の諸著作を翻訳で読んでいましたが、途中で先生が、この訳ちょっと変だねとおっしゃるので、私はいつも原本を持ってきていましたので、そこを見ると誤訳というのではないが、確かに少し変な訳であることがしばしばあり、まさしく「眼光紙背に徹す」ということわざを実感しました。
先生が古代中国思想史で老子を講義されたとき、その内容があまりに素晴らしかったので、講義のあと先生が黒板を消されているときに、教卓のそばに行き、先生にその旨をお伝えすると、先生はもうだれもいない教室でしたが、再び黒板に向かって一本の木を描き、その枝の先端が細く虚空へと延びてゆくところを示して、この枝の先端が虚空へと消えてゆくところが、「妙」という概念だよとを教えてくださいました。
N先生のことは2度ほど、英文で載せました。
日本仏教史のK先生のすごさもたびたび経験し、時にはそのすごさに、私自身の顔が真っ青になるようなことがありました。
或る時漢文の返り点「レ点」の話になったとき、これは日本独自の問題ですので、先生に、この初出はいつなのでしょうね、尋ねましたとき、先生は初出かどうかはわからないが、道長の「御堂関白記」(みどうかんぱくき)に出てくるよと、話されましたので、私はその時まったく偶然にも、3巻全部の御堂関白記をカバンで持ってきていましたので、先生にお渡しすると、細かくびっしりと組まれた東大史料編纂所刊行の三冊の中から、一冊を取り出し、二三ページめくっただけで、「田中君、ここだよ」と示されたときは、まさしく顔面蒼白となりました。4,5行読み取るだけでも当時の私にはかなり難解な本文を、先生はほとんど記憶していたのです。
先生との何気ない会話から教えていただいたことも数多くありました。その一つに、漢字音の読み方があります。漢字の読み方は、大きく、呉音・漢音・唐音と日本の歴史進行とともに、増加していきますが、今でもその中心は漢音ですが、先生との会話から奈良時代から続く呉音での読み方をしばしば学びました。呉音は奈良仏教などで多用されましたが、その響きが今では優雅に響きます。例えば、東大寺の灯篭に刻まれた音声菩薩は、オンジョウボサツと読みますし、空海の処女作、三教指帰はサンゴウシイキと読みます。その上巻の登場人物、亀毛先生はキモウセンジョウとなります。また先生が敬愛した明治の文豪幸田露伴を、先生はコウダロバンと呉音的に濁って呼んでいました。
先生からは今も決して忘れることのない、大切なことばを教えてもらいました。多分、比叡山のことを話していたときだったと思います。
先生は、「僧には行僧(ぎょうそう)と学僧があって、行僧は行をしていればよく、学僧は学をしていればいいんだよ」ということばでした。人には人それぞれの
生きる使命があるのだよ、というふうなことを、いつもの先生の静かな言い方で語ってくださいました。このことばは私の生涯のことばのひとつとなりました。
先生の思い出はあまりにも多く、もうずっと以前にエッセイ「すてきなおとうさん」でほんの少し先生のことに触れましたが、それ以外には今もほとんど書けないでいます。
言語学のC先生は、年齢的な近さとその明るいお人柄で、しばしばご一緒させていただき、帰り道から電車内まで、言語のことを教えていただきました。
先生については、かなり多くの文を書いています。初めての出会いは1969年のロシア語文法からですから、私が21歳、先生は30代半ば、まだチェコから帰られて間もないころからのお教えでした。
先生とはT駅前の喫茶店でも幾度かお話を伺いました。私がTg大出身ということも、途中から伝えていましたので、そんな気安さからも、まさしく言語の恩師となりました。
河野六郎先生の「転注考」の原本が韓国で発見されたとき、その大切さから、韓国の学者が自ら飛行機で持って来日し先生に届けられたという、学問の尊さを教えられたのもC先生からでした。
その河野先生の博士号授与にかかわったのが、K先生の盟友、比較言語学のKz先生とO先生であったことは、のちにK先生から伺いました。
C先生が教えてくださったプラハ言語学サークルのことは、私はみずからのSite で幾度か取り上げました。私の30代からの方向を決定づけたものでしたから。
私は、先生とかわした、研究生時代のもう終わりに近いころの、先生との会話をいつも思い出します。
その日、先生の講義が終わった後の立ち話の中で、たしか教室のドア付近で、先生がふと、今何を勉強しているのかと尋ねたときがありました。私はそのころ、1985年ごろ、ゲーデル、竹内外史そしてブルバキに強い影響を受けていましたので、たとえば数字の1から9の一つ一つにどのような内的な意味構造があるのかを考えたりしています、と咄嗟に思い浮かんだことを答えました。多分竹内外史先生の著作から受けた、まったく勝手な自分なりの影響であったと思います。
この私の返答に対して、多分先生は、私が答えた氷山の一角のような曖昧なことばの総体を見とどけ、強い口調で応じました。そんなことはやめろ、そんなことはヴィトゲンシタインのような天才が考えることだ、と。言語における意味の追求がどれほど困難なものであったかは、プラハ言語学サークルの大きな方向を見ても明白でした。ある点では、私が最も強い影響を受けた、カルツェヴスキイの言語に対する予想自身が、一つの個峰であったのです。私を導いた、たった一つの彼の予想、言語記号の非対称的二重性。言語はなぜかくも柔らかく、そして強固か。
結果的には、先生のこうしたことばの堆積が、私の生涯の方向を決定しました。
先生が学長になられて、一度お伺いしたいと思っているうちに、年月がながれ、先生の著作はほとんど読み継いでいましたが、その感想も伝えられないうちに亡くなられたことがいまも悲しみとして残ったままです。
あの古びたガタピシとした階段をのぼり、やや暗い電気の下でお話した日々が、昨日のことのように思われます。
ロシア語のMu先生、朝鮮語のKj先生、韓国語のCh先生、ドイツ語の女性のT先生、書誌学・古文書学のYm先生、地質学のOg先生など、親しくお話くださった先生は限りありません。
静かなCh先生が、私の韓国語の「イムニダ」の発音に何度も首を振られて認めようとなさらず、最後に「この発音はむずかしいから」と慰めてくれました。先生の言語に対する厳しさを垣間見た一瞬でした。
或るとき、授業終了後、前々から気になっていた、韓国における漢文訓読の仕方について、先生にお尋ねすると、先生は丁寧に黒板に板書しながら、その仕組みを教えてくださいました。
そしてまた別の日、先生と夕暮れ近い窓辺で、先生が韓国語との出会いをお話ししてくださったことがありました。先生がTg大学で中国語を学んだあと、韓国の延世大に留学なさった細かな経緯をこのときはじめて知りました。そのとき私も実はTg大の中国語科でしたと、お伝えしたかったのですが、なぜかそれは切り出せませんでした。それは今もなにか悔やまれるおもいとして、残っています。
Kj先生は、私が教職の試験などで欠席が重なった時、自宅宛てに手紙を書いてくださり、「田中君、どうしましたか、お元気ですか」と心配してくださったのが昨日のように思い出されます。一度は「自宅に来ませんか」と誘ってくださったのですが、そこまで甘えるのはいけないと思い、遠慮しましたが、のちに先生が早逝なさったとき、先生の優しさにお答えしなかったことが悔やまれました。比較的近かったK大学なのでいつでもお会いできると思っていました。
ドイツ語のT先生は、後期はじめの出席点呼のとき、田中さんは前期の試験を受けませんでしたね、と教室内でたずねられ、私が、申し訳ありません、私はドイツ語を学びたいとは思っておりますが、単位は求めておりませんと言う旨のご返事をしますと、先生は静かに、わかりましたと認めてくださいました。
Mu先生はロシア語祭での暗唱のために、緑色のボールペンで、レルモントフの詩を書いてくださいました。私は教職の試験などのため、十分な暗記ができず、ロシア語祭には登場できなかったのですが、先生と一緒にロシア語祭の教室に行き、ロシア語受講者の若い楽しい祭りを見学しました。懐かしい思い出です。
後期一般教養科目を受講した、地質学のOg先生の素晴らしい講義も忘れることができません。先生は開講当初に、一年間の講義の最終課題をはっきりと明示され、毎回その課題解明のための説明と資料を用意するので、それをすべてそろえれば、年度末には必ず満足のいくレポートが書き上げられるだろうと、話されました。
地質学の基礎知識をまったく持たない私は、ですから一度も遅刻を欠席もせず、朝一時限の講義を受講し、先生の講義を可能な限り克明にノートし、次第に厚くなってゆく先生が作成した資料を整理して一年を送りました。3年の学年末、ほぼすべての講義から解放された私は、Og先生のレポートに多分2週間ほどをかけて専念したと思います。
先生からの課題は、日本における石油資源は、なぜある特定の地域からしか産出しないか、というものでした。この課題を精密に論述することは普通ではかなり困難であったでしょう。私は先生の毎回の講義のノートを整理し、その骨子をなるべく要約しながらも正確にたどり、結論づけようと決めていました。ですからレポートの本文はあまり長いものではありませんでした。その代わりに、その本文の論述の要所要所に、なぜそのように推論できるかを示すことができる先生の資料を自分で整理した注釈を、図やグラフを作成して付けくわえながら、本文の多分数倍にわたるレファレンスとして付載しました。
レポートは、冬の終わりに、隣の市の図書館へ通い、ほとんど人のいない二階の木製のガラス窓が三面に拡がる明るい閲覧室で書きました。この図書館も私の大好きな図書館でした。古い木造の二階建てで、階段などもう少しギシギシいいかけていました。
この図書館には高校1年のときから通い始め、その夏休みには、初めて学んだ徒然草が気にいって、T市の本屋さんで目にした、橘純一の評注徒然草新講を購入し、わからない部分ももちろんたくさんありましたが、その全部を読了しました。橘家が、江戸時代から続く、徒然草の研究を家学とする家の子孫であったことを知ったのは、大学以後になります。この本には、通釈の後に段意という説明文が付いていて、本文の意味がよくわからない時に、大変参考になったことを覚えてます。高校1年、1963年のこの公立図書館の壁に「国産品愛用」のポスターが貼られていたのが印象的でした。
地質学のこのレポートは自分でも満足するものとなりました。何よりも論理の進行の精密さが、私の心に残ったからです。もちろんそれは私の実力によってではなく、先生の一年間の講義がいかに見事であったかを示していたからです。
今もこのレポートが記憶に鮮やかに残るのは、後日談があるからです。多分もう本当に卒業間近のころの2月末ほどだったでしょうか。私はいつもの広場で、先生に朝お会いしたとき、先生が「田中君、研究室にきませんか」と声をかけてくださったのです。先生は人間関係学科でしたし、私は、大勢の受講者の一人として、一般教育科目を受講しただけの学生でした。それなのに先生は私を特定して覚えていてくださったのです。おもえば私は先生の講義を、一番近い席で聴いていましたので、もしかしたらそれで、何かの機会に覚えてくださったのかもしれません。それにしても不思議でした。
先生の研究室でのお話の要点は二つでした。一つは、田中君は就職はどうなりましたか、というものでした。おかげさまで何とか教職に就くことができましたと、報告しました。先生がまったく他学科の私のことを心配してくださったことが忘れられません。もう一つは、私のレポートのことでした。先日新聞社の人が見えたので、田中君のレポートを見せて、新しい大学でもこういうレポートが書けることを伝えたということでした。
先生は高度成長の只中の当時、建築ラッシュから川砂利の採取が不足し陸砂利の採取が増えたことによる、地盤の変動やその場所へのごみ投棄に対して強い警告を発しておられました。先生の危惧はその後はっきりとした現実となり、その修復のために多大な時間を要したことは歴史が示しています。
先生の講義とそれをまとめた私のレポートは、私のその後のささやかな研究にとって大きな意味を持ちました。簡潔に述べれば、どのように未知の領域でも、一歩一歩着実に進めば、理解とそれに基づく発見があるということでした。この事実は、私の現代数学の対する、小さな歩みに凝縮されています。現代数学の基盤を形成したあのブルバキの壮大な構想は、最も単純なところから歩み始めるものでした。それに近いことを、先生は私に一年を通して教えてくださったのでした。
書誌学のYm先生は、J女子大学の学長でいらしたので、ある日先生が来てもいいよとおっしゃったので、御多忙な先生の学長室へ伺いました。丁度源氏物語写本の複製を先生が行っていた時で、出版社の方がその見本刷りを持ってきていました。そのあと、学内の先生の書庫を見せていただいたとき、Kd書店の方が見えて、Kdさんが、先生からお借りした本を返却しに来たのでした。先生が、Kd君は教え子だからね、と楽しそうにおっしゃっていました。三年の夏休みの前に、先生が落窪物語のあの大系の本はG大学のMt君が注釈していて良いテキストなので、それを注釈まで含めてそのすべてを三回読みなさいという宿題を与えてくださったので、1969年の夏はひたすら落窪物語を読み続け、何とか3回読み終えたことは、私の古典の読解力を、いくばくか高めていただいた気がしました。
Ym先生のことは、今に至るまで、何も書けていません。
学科長だったKo先生は、教職に決まった日本文学専修の私たち3人をご自宅に招待してくださり、祝ってくださいました。ぞのとき先生は私に、「田中君のレポートは細かに書かれていたね」とおっしゃってくださいました。日本文学史の先生の講座は受講者が多かったのですが、先生は一人一人のレポートを丁寧に読んでくださっていたことを知り、感激しました。先生に年賀状を差し上げると、立春前ごろに、丁寧な長文の年賀状を返信してくださり、今年も何とか立春までに間に合いましたと、結ばれていたことが懐かしいです。
先生の没後、日本の古典を中心としたエッセイ集がK書店から出版され、その中の「プラハの春」の中で、若きC先生と、のちに先生の奥様となられる、若き日のZさんが、先生のお世話をなさっていたことを知りましたが、私がそのことを知ったときは、C先生ももう亡くなられていましたので、もっと早く 読んでおけばと悔やまれました。「コンラド博士を憶う」では博士に空海の文鏡秘府論を送り届けるという約束をしながら、Mt先生が見つけてくださった本があまりにも高価すぎて送ることができなかったことを述べられていました。コンラド博士は源氏物語の論文を書くために、まず 空海の文鏡秘府論を読むことから始めたいと述べられたことに、Ko先生は深い敬意示されていました。私の時代には、文鏡秘府論がすでに中国で丁寧な句読を付けて翻刻されていましたので、この難解な本を私も何とか表面的に読了することができました。これはKo先生からの無言の宿題を何とか果たすことができたと、自分だけで思っていることですが、何かうれしい思いを抱いた感じがしました。Ko先生の優しさが今も胸に染みます。
F先生はなんと多くのことを教えてくださったことでしょう。トルストイの「復活」から夏目漱石の「野分」まで、宮崎県民謡の「刈り干し切り唄」から芭蕉の発句「村古りて柿の木持たぬ家もなし」まで、芦田惠之助の国語教育論から三好達治の「太郎を眠らせ、太郎の上に雪降り積む」の論争まで、徒然草から西尾実の中世文学史まで、S・I・ハヤカワの「一般意味論」から先生が言語の本質を問うた「呼び合うもの」まで。果てしない広がりでした。
漱石の「野分」は未読でしたので、講義の後すぐに図書館に行って該当の全集を借り、読んだことをおぼえています。
先生の晩年、ご自宅を訪れたとき、お寿司をごちそうするので外出しようとおっしゃり、道すがら、先生が「君は生涯追及するものを持っているか」とたずねられ、まごまごしていると、「私自身今もなおそれを求め追及している」と述べられました。先生にしてなおこのことばが、と学ぶことの果てしない深さを教えられました。
先生から徒然草の形容詞は多彩だから、それをすべて抜き出し検討するとよい、と貴重な示唆をいただきながら、非才のゆえに、その途中で先生のご逝去に会い、なにひとつご報告できなかったことが悔やまれます。これは今も残る私の宿題となっています。思えばすでに三十数年前のこととなりました。
先生はもう卒業間近な1971年早春、私に電報を寄こし、すぐ連絡されたし、とのことで、すぐにお電話すると、君は教職採用のための行動をしているか、と厳しく問いかけ、ぼんやりな私はいいえと答えると、合格は名簿に登載されただけなので、さっそく行動しなさいということでした。先生の厳しい優しさが今も胸に残ります。
先生は確かに厳しかったです。ある日先生の研究室にお借りした資料か何かを返却しにうかがったとき、私の右肩が、少し壁に触れていました。それを見た先生は、ものを返しに来るのに、壁に寄りかかっているとはなにごとか、と強く叱責されました。また先生のご自宅で、或る漢籍の字句が問題になったとき、テーブルの下には諸橋大漢和がいつも置かれていましたが、それを引いてほしいと頼まれました。私がテーブルの下から、大判の該当する部首の一冊を抜き出して、ひき始めるとすぐに、「そんなに遅くちゃだめだ、辞典は頁を二三回めくるくらいで探しあてなくてはいけない」とこの時もひどく叱られました。
またある日、先生の出発点は哲学でしたが、そのための教員の資格試験の面接で西田幾多郎に接したことを、本当に懐かしそうに、先生の青春を回顧するかのように話してくださったことを覚えています。波多野精一の哲学史に関して話してくださったときのことでした。
思い出は切りがありません。今も女房に話すと、本当にそんなことがあったのと、言われる、詩人で万葉集研究のM先生との出会いがありました。
先生は私の編入試験の時の口頭試問の先生でした。私は日本文学の基礎もよくわからないままでしたので、歴史物語の四鏡について尋ねられた時など、しどろもどろでお答えしていましたが、もう私のうろ覚えの力がわかったのか試問を終えた最後になって、先生独特の静かな表情で、もし君が受かったら、私の家に来なさいとおっしゃるのです。その時に先生のご自宅やお電話をお聞きしたのか、もうはっきりとは覚えていないのですが、何とか合格した後、私は大学に行くより前に、先生のご自宅に伺ったのです。先生はWk大学での勉学の方針を示してくださり、そのあとで、私の書庫を見るかねと、おっしゃり、お二階へ案内してくださいました。そこはほとんど全部が書庫となっていて、膨大な書籍でした。最も印象的だったのは、先生はその中からたしか、中原中也が先生に送った献辞のある詩集を見せてくださったことです。先生が旧制高校のころから詩誌を主宰していたことを知ったのは後年のことになりますが、井上靖が先生の詩誌に寄稿されていたことも知りました。しかし当時はまったくそんなことは知りませんでしたので、ただ驚くばかりでした。この先生はまさしく日本の近代文学史の中に存在している、というのがその時の実感でした。
まったく見ず知らずの編入生に先生はご自宅へ来るようにと話され、そこで学ぶからには専門家になるように努めなさいとおっしゃり、しかも先生が書かれた文法の教科書をくださいました。そして大切な書庫まで見せてくださったのです。今もこの事実は、本当のことなのかと思うことがよくあります。Wk 大での生活はこうした幸せの中に始まりました。
そして大学での最後もやはりM先生でした。もう大学での講義もすべて終わったある日、M先生からはがきが届き、君の就職はほぼ決まった、先日K高校の校長が採用の件で君のことを電話でたずねてきたので推薦しておいたから、というものでした。私は早速翌日か何かに、大学へ行き、研究室にいらした先生に御礼を述べると、K高校の校長が偶然僕の後輩だったので、僕のところに照会しにきたんだ、と言って楽しそうに話してくださいました。
私のWk大での勉強は、M先生で始まり、M先生で終わることとなったのです。なにか運命というか予定調和というか、そんなことをおもわずにはいられません。先生が晩年、病院で闘病生活を送られているとうかがったとき、お見舞いにうかがうべきか、何度も迷いましたが、先生のそうしたお姿を拝見することがよいのかわからず、最後までうかがえませんでした。このことは今も私の心に、悲しみとともに私のふがいない生き方を問うています。しかし先生はきっと、編入試験でお会いした当初から、私のそうした優柔不断を熟知されていたと思うに至りました。けれどもそんな私をいつも暖かく見続けてくださったように思います。
私は諸先生から、いったい何度お手紙やおはがきをいただき、なんどお電話をいただいたのでしょう。これらはすべて事実なのに、今振り返ると、どうしてこんなにも優しく丁寧に接してくださったのか、不思議で仕方ありません。私は、図書館が好きでよく利用していましたし、本もある程度は読んでいました、レポートも自分としては一生懸命に書いたものが多かったことはたしかです。しかしここに書いてきましたように決して特別に優秀な学生ではありませんでしたし、性格も表面的にはほぼまじめであったかもしれませんが、どちらかというと生活はいつも不器用で細やかでもありませんでした。
先生方はそのなんとなく頼りない私を、少しは支えようということだったのでしょうか。自分では今もよくわかりません。
私は転校を考え始めた1969年の初めまで、新設されたばかりのWk大学の存在を知りませんでした。その年の新春のころ偶然に見た新聞の記事で、新しいいくつかの大学が紹介されていて、その中で、初めてその開学を知ったのでした。簡単な紹介でしたが、しかしその清新さがどこか私の心に響いていたのかもしれません。その新聞記事は私の恩人の一人と言えるかもしれえません。
その後この大学で学び直してみたいとはっきりと思うようになり、私が直接大学に行き、編入の可否についてたずねましたたとき、担当であったYz先生が本当に丁寧に応対してくださいました。そのときの私は、日本文学の素養がほとんどないので2学年からの編入を考えていましたが、先生が2学年は定員がすでに一杯になっているので、募集は行わない、ただ3学年が少しだけ定員に充ちていないので募集することになっているということを教えられました。Tg大での専攻がかなり違う状況で受けられるでしょうかとたずねると、先生は私が持参した書類の単位取得状況を見て、類似した講座もあるし、総取得数は満たしているようなので、問題は同質でない講座の読み替えが問題になるとおもうが、もし編入試験に受かったならばそのときは大学として読み替えが可能だと判断したことになるので、最終結果は今の段階ではもちろんわからないが、受験資格は多分満たしているでしょうと本当に懇切に意を尽くして話してくださいました。アポイントも取らない私の突然の来校に対して、Yz先生はこれ以上ない丁寧さで応じてくださったのでした。
先生の優しさは編入以後も続きました。これこれは読み替えが完了した、この単位は現在交渉中だが大丈夫だろう、あとこのいくつかについては、田中君が直接、先生方のところに行って指示を仰いでほしい、その連絡はすでにしてある等、本当に細やかに対応してくれました。その話し合いは旧図書館の前の、芝生のところにあったテーブルに先生と相対してのことでした。明るいもう暑いような春の日差しの中でした。私のWk大学での生活はあの旧図書館とともに始まりました。
これほど恩になった教務課長でいらしたYz先生に対して、私はしかし一言の御礼も述べずに大学を卒業していきました。いつもそうでしたが、自分のことだけに精一杯で、常々細やかな他への配慮が欠ける自分の生き方のまずしい一端がここにも表れてしまいました。
先生がWk 大の設立のむずかしい事務方を主導していたことを知ったのはのちのことでした。
先生は1970年代に他大学へ移り、研究の中心であった職業教育の分野で大きな役割を果たしたことを知ったのは、先生がN学院大学退職後、急逝なさったあとのことでした。ここでも私は先生のご恩になにひとつ御礼を申し述べずにお別れしてしまいました。
この手紙は、私が好きだった旧図書館について記すのが本来の目的でした。けれども結果的には諸先生方からいただいたご厚意を伝えることが中心となりました。しかし、その根底に、あの小さな旧図書館の壁のレリーフや収蔵庫の隅に置かれていた椅子や、明るい開放的な窓辺や、Y先生との読み替えのテーブルがあり、私のそのころの勉強は、その旧図書館でなされることが多く、それが結果として、先生方とのつながりにも移っていったような気がします。
私が4年になった1970年の初夏のころ、親しくなった友人が「おーい田中、お前の写真がでているぞ」というので、彼が持ってきた冊子を見ると, たしかに私が旧図書館で本を読んでいるところが、載っていました。それは1971年用の真新しい入学案内の冊子でした。私はたしか事務室かどこかへ行って、その案内を一部いただいてきたことを覚えています。写っていた私は白い開襟シャツを着ていて初夏のころに本を読んでいるところでした。その後の幾たびかの転居で、この冊子は残念ながら失ってしまいました。
私が図書館を利用した目的の一つに、外国語の学習がありました。散漫な私でも図書館ではかなり長時間集中できたからです。岩波書店から発行された、前田陽一先生のフランス語の独習書を三か月ほどかけて、練習問題の仏作文まですべてを完了したのもこの図書館でした。思い出せば、前田先生が、テレビの3チャンネルで聴いた先生の美しいフランス語に私は魅了されていました。当時はなかなか聴くことができなかったヴェトナム語の美しい抑揚に初めて惹かれたのも、悲惨なヴェトナム戦争を報じていたテレビを通してでした。
英文学者の福原麟太郎先生のエッセイを、研究社の著作集を通してほとんど読了したのもこの図書館の蔵書からでした。今も最も記憶にあざやかに記されているのは、先生がやはり図書館かどこかで本を読んでいると、その机上に美しい虹色が現われ、おどろいて窓辺の方を見ると、窓ガラスかなにかが、プリズムのような役割を果たし、その光が机上に美しい文様を落としていたのでした。Wk大学の旧図書館ではもちろんそのように美しい虹は現われなかったのですが、その代わりに、福原先生のエッセイの読後感は私にとってはなにか不思議なほどに特別なものとして残り、できるならば今も、このエッセイを当時のまずしい学生時代のように、もう一度読み直したいと時々思います。そんんふうに時代をさかのぼることは不可能なのですが、この半世紀前の福原先生との出会いは、私の読書のひとつの頂点をなすようなものだったと今では思うようになりました。ここでも旧図書館に感謝しなくてはなりません。
新図書館は、私の研究生時代に、建設が始まりました。私が在籍していたときには、たしか十分な完成には至っていなかったでしょう。それが今はすばらしい図書館となりました。先年うかがって人文学部紀要を拝見したのは、亡くなった恩師、仏教史のK先生のご自宅でのインタビューが載っていたからです。インタビューアのお一人は、私たちの学生時代最も若かった中世文学のYk先生でした。そのYk先生も先年退任後、急逝されました。
Yk先生の説教節等のご研究は今も精緻なものとして高く評価されているようですが、私は平家物語の購読で、3年次に先生の一面をかすかにうかがうことができただけでした。それでも先生は私をおぼえていてくださり、私がまもなく研究生を終えるころ、通学路で偶然先生とお会いしたとき、少しお茶でも飲んでいかないか?とさそわれ、近くの小さな喫茶店でK先生の著作集刊行のことなどをお話できたのが最後となりました。
話がとびとびになりました。本当はあまりうまく表現できない、あの旧図書館のガラス戸の外の明るい芝生の庭やそこで三々五々座って集い雑談したことや、椅子やテーブルを出して、日差しのまぶしいのも気にせず、本を読んだことや、どれも私の力ではうまく表現できないもろもろの多くのことが多分、もっとも大切であったのかもしれません。その最後に、私自身のこととしては、もしかしたら、普通の人よりも多分少しばかり多く収蔵庫の暗い明かりの中で、自由にしかもまったく静かに本をめくったことが加わるでしょう。
そして今は、新しい図書館で、新しい出会いと発見が、私などには想像もできない未知の分野に向かってなされ続けているでしょう。
旧図書館への感謝と、新図書館への希望を、この小文で果たして伝えられたでしょうか。私の学ぶことの中心がここにあったことは確かなのです。
Cordially,
Tokyo
16 April 2018- 10 May 2018
TANAKA Akio
at
Sekinan Zoho